『わが手に拳銃を』読了

わが手に拳銃を私としたことが、読み終わるまでに1週間もかかってしまった。おお、リ・オウ。このやろう…。

この本、全体を通して感じたのは、高村薫がうっとりしながら書いている姿。拳銃をパーツにバラしていく過程の描写の細かさは、『照柿』における熱処理工場のそれを彷彿とさせる。私のような興味のない人間にとっては正直どうでもいい描写なのだけれど、ページの隅から隅まで、執拗なまでに書きこまれたそれらの描写は、一彰の拳銃に対する執着心にぴたり重なる。

執着心という言葉がこの作品のキーワード。主人公の一彰は拳銃とリ・オウに。リ・オウは一彰と金に。守山はあこがれた女の忘れ形見と拳銃に。公安部の田丸は己の信じる正義と、それを乱す者に対する社会的制裁に。笹倉は赤いも青いも沙汰次第の己の業に。

それぞれの執着心が複雑に絡まり、転がり続けた15年。誰もが修正の利かなくなった人生を歩み、ある者たちは己の信念ゆえに人生の終着点にたどり着き、ある者たちは更なる業の深淵に向かって歩き出した。

一彰にとって、リ・オウとは、恐怖であり、憧れであり、ひと目で恋に落ちた相手だった。一彰はリ・オウに大陸の広さを知り、リ・オウに真の自由を知ったのだろうと思う。理由もなく、形もない一彰の自由への渇望は、リ・オウへと繋がる拳銃への執着心に顕れている。でも自由になるということは帰る場所を失うということ。一彰はそれが怖かったのだと思う。一彰は帰る場所を作るために子供を作った。堅気でいる理由を作った。かつてリ・オウが語った夢を忘れようとして、自分に家族という足かせを作った。

しかし、リ・オウが再び一彰の前に現れた時一彰は気づいてしまう。初めて出会った時から、自分とってリ・オウが全てだったことに。その瞬間、一彰は妻も子も、拳銃さえも、リ・オウを忘れるための捨て駒だったことを自覚してしまった。まさに「おお、リ・オウ。このやろう…」である。

『わが手に拳銃を』はハードボイルドの皮を被った愛憎物語だ。誰もが自分ひとりで生きているような顔をして、実は誰ひとりとして「本当のひとりぼっち」ではなかったということ。誰もが心の中に「誰か」をすまわせていたのは、非情な匂いのするこの作品の救いであったと思う。

この作品は、全面改稿および改題され『李歐』という小説に生まれ変わったそうだ。というわけで、続けて『李歐』を読むことに決定。噂によれば全員美形化されているとか。おお、高村薫。このやろう…。である。ただでさえ仕事で睡眠不足なのに、睡眠時間を削ってでも読みたくなるじゃないか!どうしてくれるんだ。